雨の檻

突然降りだした激しい雨が新宿の灰色を一段深い色へと変化させた。
カウベルの音とともに雷が店内にも響き渡る。
「いらっしゃい、香さん」
「ちょっと雨宿りさせてね」
「その様子だと今日も依頼はないみたいね」
「それは言わないお約束~」
店内には美樹と、カウンターには麗華と冴子がいた。他に客はひとりもいない。
「海坊主さんは?」
「買出しよ」

冴子が席を移動し、麗華と自分の間に座るようにと手招きする。
香が座るといつものコーヒーがカウンターにおかれた。

「二人一緒なんてめずらしいのね」
「非番なのに誘ってくれる人のいない可哀そうな自称美人刑事を、仕方がないから妹が救ってあげたのよ」
「なによそれ? 誘いを全部断ってたから疲れて寝てたのよ。それに自称ってなによ。この、自称美人詐欺まがい探偵のくせに」
「ひどーい! 詐欺なんてしたことないもん!」
「だから詐欺まがいなのよー」

この姉妹は仲がいいのか悪いのか?
香は自分を挟んで繰り広げられる姉妹の会話を聞き流し、琥珀色の液体を喉に流し込む。

「香さんは、冴羽さんとどこまで進んだの?」
ぶーっっっ!
琥珀色の液体が霧状に広がった。
は? この美人探偵は何を言った??
「な、何言ってるの? あたしと僚はそんな関係じゃ……」
「だあって、美樹さんの結婚式の日、抱き合ってキスしてたって聞いたわよ。ねぇ?」
麗華は美樹に訊ねる。
美樹はソーサーを磨きながらあからさまに視線をはずした。
「キスなんてしてないって!!」
「なーんだ。そーなんだ。つまんなーい」
「香さんが悪いんじゃないかしら?」
冴子が冷静な顔で言う。
「あたしが悪いって、どういうこと?」
「んー、お互い好きなのは僚もわかっているはずでしょ。でも、踏み出せないのは、香さんが『私は親友の妹です』オーラを出しすぎてるのよ」
「はぁ」
「もっと大人の色気をださないと」
「要はヤりたいアピールをすればいいのよ」
「はああああ??」

「よっしゃ、この美人探偵が男の誘い方を教えてあげるわ。まずねぇ、その目が問題よ。そんなまっすぐな瞳で見つめられたら裏の世界にいる人間にはキツイわ。ちょっと手を出しずらいかもね。もっと愁いを含んだようにこうっ」
麗華が香の瞼をぐりぐり押す。
「いたたたた。あたしには無理だってっ」
冴子も楽しそうに身を乗り出す。
「とりあえずボディタッチからにしてみたら? 手をこう太ももから内またに~」
冴子は香の手を取り、麗華の足をさわらせる。香はされるがまま。
「きゃははは。姉さんくすぐったい。それよりもさ、もっと身体をすり寄せてさ、上目遣いで」
「あー、麗華はいつもその手で男を落とすのねぇ」
「やだー、姉さんじゃあるまいしぃ」
美人姉妹はとても楽しそうにはしゃいでいるが、当の香は若干引き気味だ。

……これ、何のレクチャーなのよ。
それくらい教えてもらわなくても知ってるよ、女だし、大人だし。

……嘘。知らないし。

……それも嘘。知ってるけど、怖いだけ。拒絶されたらどうするの?

どうせ教えてくれるなら、拒絶された後の立ち直りかたとか教えて欲しいんだけど。
この美人姉妹は、断られたこととかないんだろうなあ?

麗華の携帯のアラームが鳴り響く。
「いっけない。クライアントと待ち合わせの時間だわ、続きは後でね。姉さんごちそうさま^^」
麗華は挨拶もそこそこに手をひらひらさせ、春の嵐のように店を飛び出していった。
「あの子は相変わらずよね」
「あ、麗華さんもいなくなったことだし、誘い方講座はまた今度ということで……」
「あらいいの? 私のとっておきの秘儀があるわよ」
「ひ、秘儀。そりゃ、冴子さんたちは断られたこととかないからわからないかもしれないけど、あたしは……」

「あら、あるわよ、断られたこと。それも香さんがよく知ってる人に」
「……え?」
僚? でもあの僚が冴子さんを拒絶なんてするはずないし。
「槇村よ」
「ア、アニキに!? うそ」
「ウソじゃないわよ。刑事のころから相棒として信頼されてるのはわかってたけど、女としては全然見てくれないんだもの」
アニキから、そんな話なんて一言も聞いてない。
「押して押して押しまくったんだけどねー。あ、さっきの秘儀だって通用しなかったのは槇村だけなのよね」
冴子さんに落とせなかったとは、逆にアニキすごいかも。
「毎回毎回撃沈させられてたわ」
冴子は窓に打ち付ける雨を見ているようで、もっと遠くを見ているのかもしれない、と香は思った。

「どうやって立ち直ったの?」
香が問うと、冴子はおちゃらけて答える。
「立ち直るっていうのは、落ちこんだ人の言葉よね? 私へこたれなかったもの、フフ」

私ね、小さな頃から我慢してたのよ、いろいろとね。
父親は警察の上層部だったし、長女だったし、妹はあんなだから私がしっかりしないと、ってね。
だからワガママも言わなかったし、周りの空気をよんで的確な立ち居振る舞いをしていたと思うわ。
才色兼備で目立つのは仕方がなかったけどね。
冴子はウインクした。

それが、槇村と会って、すべてが変わってしまったわ。
初めて人間に魅力を感じたの。

私があんまりしつこく迫るから、ある日言われたの。
「大切な妹がハタチになるまで待てるなら」って。
そんなこと言われただけで、年甲斐もなくはしゃいじゃった。
待ってればいいんだ、って。
妹さんがハタチになったら、私だけを見てくれる日がくるんだ、って。

で、あの日よ。
当日は妹に大事な話があるから会えないって言うから、翌日にホテルのスイート予約してたのよ。
僚から槇村が死んだって聞かされて、最初エイプリルフールだと思ったから笑っちゃった。
つまらない嘘ね、って。

誰にも言ってないんだけどね、槇村が死んでから、ずーっとフワフワしてる感じなの。心と体がずれちゃってるみたい。時間の感覚もちょっとおかしいし。
まだ夢の中にいるみたい。
香さんも僚も、槇村の死をちゃんと正面で受け止めて前に進んでいるのに、私だけがあの日のまま動けていないのよ。

僚と会っているときは、必ず槇村もいたから、あの頃の空気感を味わっているような気がするわ。
僚を通して槇村を感じているだけかもしれない。僚に失礼よね。でも、僚もそれをわかってて、口にはしないけど、あの頃と変わらない雰囲気をわざと作ってくれているみたい。
やさしいのか残酷なのかわからないけど。

香さんを見ていると……

槇村が全身全霊をかけて守って育てた宝物よ。
槇村の気持ちが見えるような気がするわ。
冴子は香の頬にそっと手を触れる。

「今も、守られているみたい」
冴子の頬を涙がつたう。

「冴子さん?」
「あは。ごめんなさい。らしくないわよね。槇村の話なんて、6年間誰にもしなかったから、かな?」
「僚にも?」
「しないわ。家族でもないくせに、私より槇村と一緒にいた時間が長いのよ。嫉妬して切り刻んじゃうかもしれないから」
そして僚は素直に切り刻まれるでしょ? そんな男には話しないわ。

だから、槇村と絆が強かった香さんと僚がうまくいってくれたら……もしかしたら、私も現実に戻ってこられるかもって、ちょっと思ってて。勝手よね。

「この界隈の男たちって、こと身近な女には気があっても手をださないのよね、本気になればなるほどね。女をなめてるのよ」
今まで黙って聞いていた美樹が激しく首を縦に振り、同意している。
「男たちが思ってるほど弱くないのよ、女は。そんな生半可な気持ちで好きになったわけじゃないじゃない」

だから……

だから女から手を出していかなきゃね。

冴子は妖艶に笑った。

カウベルの音が店内に鳴り響く。
サラリーマン風の男が二人、店内に入ってきた。
傘もなく、スーツは濡れていない。
いつの間にか雨は上がっていたようだ。

「義理の姉になるかもしれなかった女を助けると思って、僚に手をだしてよ」

「ええ!? なにそれ」

「人助けよ。ほら!」
冴子は窓の外を指差した。
ナンパ帰りらしい僚が歩道を歩いていた。
「さ、行った行った」
冴子は香の背中を押す。

「う、がんば……り、ます」

香はコーヒー代をカウンターの上におき、美樹に目で合図をすると店を出ていった。

客のオーダーをとってきた美樹が再びカウンターの中に戻ってきた。

「人助けって言えば、香さんは断れない。わかってて言ったのよね? さっきの話し、どこまでがホントなの?」

「全部本当よ。あ、秘密よ。ファルコンにもね」

「女同士の秘密ね」

いつか、新しい一歩を踏み出せるまでね。

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