潜熱

たぶん今日は帰ってこないよなぁ。

香は布団を頭までかぶった。
カーテンの隙間から差し込む日差しがまぶしい。

依頼はストーカーに狙われているという女性のガードだった。
絵梨子の仕事関係の知り合いだという新人のモデルだ。
ストーカーはおそらく元カレだという。
僚は別件で教授がらみの依頼を抱えていて、手が離せないので、香が担当することになった。
素人相手なら男だろうが今の香なら十分対処できる。

依頼人をアパートに住まわせ、香がガードして彼女を職場へ送迎し数日、
ストーカーは姿をあらわさない。
香が気配を感じることはあったが、とりたてて何をしてくるわけでもなく、それとなくあたりをうかがっても見せられた写真の男は見当たらない状態が続いていた。

香はサイドテーブルに置いてあった体温計を咥えた。

彼女、胸も大きかったよな。
胸も気になったけれど、それよりも気になったのは彼女の視線だった。
あれは僚に惚れてるな。
いつものことだ。
なぜか美女ばかりが僚に惚れる。
そして僚も鼻の下を伸ばしていた。

ピピピピッ
42.5℃
体温計をサイドテーブルに置く。
隣には教授特性の液体風邪薬が置いてある。
乳白色のそれは、食欲のない香の胃にやさしいようにと液体にしたのだそうだが、ものすごく苦い。
数回に分けて一日一本を目安に飲むようにと言われたが、それさえ敬遠してしまうくらい苦い。

昨日は雑誌の撮影だという依頼人を高台にある美術館までガードしていった 。
その美術館は全面ガラス張りで、殺人が目的なら狙いたい放題の状態だったので、周囲をくまなく見て回った。
美術館から外を見た時の風景にもこだわって建築されたそうで、木々や池まで計算されて配置されているそうだ。
だだっ広い敷地を歩いているとき、雲行きが怪しくなり、雨が降ってきた。
小雨はやがてミゾレに変わった。
撮影が終わるころにはミゾレも止んでいた。
寒かったけれど、後はアパートに帰るだけだったので我慢した。
アパートに帰って、熱いシャワーを浴びれば、寒いのもおしまいだ。
思いもしなかったのだ。風邪をひくなんて、熱が出るなんて。
そういえばここ数年、風邪をひいていなかった。

香は目を覚ました。
自分でもしらないうちに寝ていたので、目が覚めて初めて自分が寝ていたことに気づいた。
部屋の中が薄暗くなっていた。
喉の奥がザラザラする 。

喉乾いたなぁ。

明かりもつけず、スリッパもはかずにキッチンへ行く。
水を飲み、コップを濯いで元あった場所に戻す。
そしてその場に座り込んだ。
僚がいないと静かだなぁ。
ご飯は作らなくてもいいよね。きっと帰ってこないから……
あたしも食べられそうにないし。
はぁ。
ちょっとだけ休もう。

香は頭をシンクの下の扉に預ける。
冷たくて気持ちいい。
帰ってきてほしいな……近くにいてほしいな……
でもそんなワガママ言えないよね。仕事中だし。仕事じゃないかもしれないけど。
香の脳裏に依頼人の肩を抱き、嬉々としてホテルに入っていく僚のイメージが浮かんだ。
イメージを振り払おうと頭を振ると、熱のせいかそのまま倒れてしまいそうになった。
深いため息を吐く。
変な想像してたら熱が上がっちゃったみたい。
香は自嘲気味に微笑むが、熱が上がったのは事実で、しばらくは立ち上がれそうになかった。
足に力が入らない。
寒気がする身体を、両手でギュッと抱きしめる。
寒い。
目を閉じた。
ちょっとだけ休んだらベッドに戻らなきゃ。こんなトコで座り込んでたら僚に怒られそうだもんな。

「何してるんだ」

そうそう、そんな低い声で。
僚の声、大好きよ。
ああ、もう幻聴が始まっちゃったよ。
どうせ幻聴ならもっと甘い言葉をささやいてほしいなあ。
世界で一番お前が好きだっ、とか、愛してるっっ、とかさ。

「香?」

……あれ?

幻聴に名前を呼ばれて声がしたほうを見ると、キッチンの入口に背を預けて僚が立っていた。

わわ、幻覚だ。

「そんなとこに座り込んで、何してるんだ?」

「誰?」

僚はキッチンの明かりをつけて香に歩みよる。

「誰じゃねーだろ。熱で頭がイかれたか?」

近づいてきた僚を見て、やっと本物だと思える。

「あ、か、彼女は?」

「それがさぁ、俺が一緒にいたのが気に入らなかったみたいで、ナイフを持って飛び出してきたよ。彼女の意向で警察に突き出して、俺はお役御免」
俺が彼女の送り迎えをしてたらもっと早く解決してたかもな、と薄く笑った。

「そか、ストーカーには私はちゃんと女に見えてたんだね^ ^」

「あのね、いつの話をしてんの。で、おまぁは何で座ってるの?」

「お……あ、えーと……」
立てない、とは言いたくなかった。しかし、上手い言い訳が見つからない。
とりあえず笑ってごまかす。

しゃあねぇなぁ、と僚は頭をかく。

「特別サービスだぞ」

僚は香を軽々と抱き上げた。

「立てないなら「ベッドに連れてって」って言うの! もっと甘えられないのかね」

「……ごめんなさい。でも、これじゃ……」

「不満か?」

「風邪、うつっちゃうよ」

僚は、フッと笑った。

「いいさ」

香は熱い腕を僚の首にまわした。

「ふふ、お姫様だっこだね」

頭を僚の胸にあずける。

「僚の身体、冷たいよ?」
「おまぁの熱が高すぎるの! 薬は?」
「へへ」
「ごまかすな。飲んでないのか?」
「あれ、苦いんだもん」
「だよな」

熱で潤んだ瞳。上気した頬。熱い吐息。
俺には刺激が強すぎるよ、と思っても僚は顔にはださない。

「早く治してくれよな。ダブルワークじゃ身体がもたないよ」

香をそっとベッドにおろす。
サイドテーブルに置いてあった薬を一瞥する。

「薬、ぜんぜん減ってないな」
「そ、そのうち飲むよ」

「……特別サービスだぞ」
僚は薬の入ったプラスティックの容器を口に含むと、香に口づけ、薬を流し込む。
コクン。
香の白い喉を薬が流れていく。

初めてのキスは苦い薬の味だった。

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